フィナーレは鳴り止まない

世界と終わらない恋をしている

神が人になる、終わらない奇跡がここにある。──松ステが好きなF6オタクより



原作F6が大好きで松ステが大好きでステエフが大好きなF6ヲタクの松ステF6感想とちょっとしたお話。 
長いです。 




「神がここにいないなら、代わりがここにいるから!目の前を見て…誰がいる?」 

舞台おそ松さん(以下松ステ)版のF6は、初演の一番最初の登場シーンである通常六つ子が夢へ行った直後に始まる「WAKE UP」が原点だと思っています。 


アニメ原作F6は場面によって救世主だし空飛ぶしホテル壊すし当たり前のように魔法を使うし本当に神様の如く好き勝手に動いていて、赤塚学園のBL制に通う銀河中を魅了する学生アイドル、という設定ではあるけど未成年であるとは私の知る限りではどこにも開示されていない。 
クリスマス回では六つ子と対比するようにブランデーを飲むお肉がいたりミスクーが繁華街歩いてたりシャンパン乾杯するジャスとか、まあF6だから私達の常識関係ないかもしれないけど本当に、ステってそういうところ上手く使ってくるよな〜〜〜と思います。演じているのは全員当たり前に成人されてる役者さんだしね、色々な意味でギリギリを攻めて来るところがすごく好きです。 

で、初演を観たときに上記の歌詞を歌われて脳天貫かれた感覚が今も鮮明に残ってます。 
自らを神と呼ぶのか、神と呼ぶこと神だと思うことを許してくれるのか、そんなことがあっていいのか、いいんだ。 
僕達が君の神様になってあげるよ、と言い放ったのが初演。大きく出たな〜〜〜〜すげえや!!!!と感服しました。 
なかったことになっている、世間的に封印されている幻の一話をどこまで掘り下げていいのかどこまで語っていいのか線引きが難しいんですが、結局通常六つ子の夢の姿、理想の姿、売れるにはモテるにはどうなるか、を詰め込んだ結果がF6の六つ子なんですよね。だから似てる部分も、思い切り性格が違う部分もある。 
初演では六つ子とF6が交互に出てきてて、その都度六つ子が先導して〝夢の中〟や〝テレビの中〟やトト子の〝if、妄想〟という松ステ6つ子の〝軸から外れた異世界での話〟っていう部分での立ち位置がF6は多かった。それもそのはず、だって原作であるアニメ本編がそうだから。 


ifであり、もしもであり、夢であり、妄想であるなら、ステで神様だよ!!って豪語したってなんの問題もない。むしろ自らを神とすることでより一般人と差別化し特別感が増していく。大きく出たなあと思ったけど割とすんなり受け入れられたし、そうやって特別な存在であるんだとF6のことを松ステが解釈してくれたことがすごく嬉しくて仕方なかった。 

好きな子の神様になりたいけど好きすぎて普通の人間みたいになってしまう。それがF6の中によく書かれてるなーと、1も2も見ていました。 


そして松ステ2、鍵になるのはやっぱり 

「でもお望みなら、バイトだって始めるよ」 
「同じ顔だけど譲れはしないんだ」 

ではないでしょうか。 
お金なんて有り余ってるくせに、好きな子が望むならバイトするよ!!っていう自称神様、すごく可愛くないですか。 
F6が普通の一人の人間になってしまうというのがしっかり分かるのがGLGNだし、劇中ではそれこそなんでもありなF6だけどいざ恋心となるとなりふり構わず、なんでも出来るくせに私達へ「僕らの願いを叶えて」って言ってくる。 
兄弟でも譲れないと独占欲を顕にしてくる。 
F6がトト子ちゃん(を通した私達)に一生懸命になるのが原作でもステでもすごく好きなんですけど、なんでも完璧な彼らが唯一自分の兄弟と争ってでも1人の女性を欲しがる。それってすごく人間らしくて人間くさくてとてもじゃないけど神様だなんて思えず、自分のことを神様だと思っていいよ!って言うくせにめちゃくちゃ私欲まみれなの、愛しくて仕方ないじゃですか。 



少し話が逸れますが、松ステって本当に役者のスペックに頼っているというか全権を役者に委ねているというか「そのまま彼らを演じられる人」を中心に配役されていると思っていて。 
うわあ、実在してたらこんなことやりそうだな〜!!とか、え〜やり過ぎじゃない!?とか、色々リアルタイムで思うことができる。 


すごいそこは魅力的だと思うんです。 


演じているのは生身の人間だから、演者さんに設定や脚本が寄せられたりするのも分かるし、元々キャラになりきれる人たちを選んでる故に彼らの言動もキャラのものに見えるというか。 
と同時に、役者やステ独自の解釈で進められていくから、原作と原作を好きな人との間で多少の違和感なりなんなりが産まれてくるのも当たり前ですよね。 
ましてF6なんて、原作から干されまくりましたし(そもそもF6verが一発芸のようなイレギュラーなものなので当たり前と言えば当たり前)アニメに出るとなんでF6なの?六つ子がいいのに。という声も当時めちゃくちゃ見たくらい世にF6が出回ってなかったので(現にステから原作F6を好きになってくれたタイプの人沢山いると思います)ステの独自設定や追加設定があっても不思議じゃないんですよ。 

F6の1stツアーが決まった辺りから今後のステF6どうなるんだろうなーとぼんやり考えていました。 
ツアーでは自己紹介の時に、「あくまで自分達のやるF6ですよ」という意思表示というか、原作を尊敬しつつステ版の自分達なりのF6をやりますよ、というのを役者さんの名前と共に最初に示されたのですごく有難かったのを覚えています。 
=で考えなくていいんだな、原作は原作、ステはステで切り離して好きでいていいんだ。と、多少なりとも覚えていた違和感を自分の中で昇華できたように思えて安堵しました。 


ツアーの話になりますが、自分達を神様だと言っていた初演から時間は経ち今度は 

「神とは実在しないものを言うのではないか?我々は実在している。じゃあ神じゃないな。そう、神っぽい存在ってことだ」 

というやりとりがありました。 
神様であることを辞めて、ただの人間を超越した神様みたいにすごい人間、であることを選択したのがステ版のF6。 
これもすごい切り込み方してきたな〜〜!?と本当に驚きました。 
松ステの中でF6がどんどん進化していってる。文字だけで言えば神から人間へと退化していってるのかもしれないけど、生身の人間である役者さんの中にF6というキャラが融合して進化していってるのかもと私は捉えました。 


普通に考えて、キャラ設定ありきの台本が大まかにしか決まってないツアーってかなりきついと思います。どこまでどうキャラを守る?という話にもなってくる。 
今のステ版F6って、役者さん本人の要素をかなり加えられていると思いますし。それが加わったステ版F6だからこそ魅力的に見えても来るんですが。 
ツアー当時よく見かけたのがF6がとうとう現世に受肉した、というもの。 
言い得て妙ですよね、本当に六つ子ありきで六つ子が望んだからこそ生まれたF6というもはや概念のような空想のようなふわふわした存在だった彼らが、意志を持って現世に降り立ち六つ子達と対になるもうひとつの六つ子として実在することを認められた瞬間、それこそがツアーだったな……と。 


松ステ自体の話に戻りますが、今回はツアーと喜劇を経て再び大集合しての松ステ3。 
期待値も高いだろうし、演じる方々も期待を煽っていました。アニメ3期はやっていないしえいがネタ?今回のF6は?構成は?割りと当日までハラハラしてました、勝手に。 
実際始まったらそんなの杞憂に終わったので、というか杞憂でしかないんですよね観る前から分かっていました、それでも不安がるのがオタクです。 

私、四銀の校歌から始まる今回の松ステ、本当に凄いなって思って。原作ありきの舞台であることを如実に感じたしそう思わせてくれたのがすごく嬉しかった。3期をやっていない今どのOPを使うのかも、OPに使用されてない曲どれを使われても「既にカテコとかで使用してるし……」と思いそうで割と気にしていました。その不安とか戸惑いとか全部払拭したのが校歌始まり。 
あーーーちゃんと1期ラストの曲!!とおそ松さんが好きな身としてはめちゃくちゃ有難かったんですよ。松ステ自体がアニメの続編に思えるというか、アナザーストーリーみたいな感覚で観ることができるんですよね。 
そして実際に始まったのは1と2のOP。喜劇、ツアーを経て何を使うのかと思ったら、1と2のOPを公演ごとにやってくれるというのがこれまた初演から追ってる身としては本当に本当に嬉しくて仕方なくて。こう来たかーーー!!!!って。

やっぱり松ステはすごい。しかも敢えてその2つを使うんだよ。パワーアップして帰ってくるってしきりに言っていたのも頷けるよね。 

そうだね、ツアーと喜劇とやった上でもう一度はなまるぴっぴと君氏をやってくれるんだもんね。そりゃあパワーアップしたのがよく分かるよ。比較ができるもん。 
帰ってきたんだーーーーって思ったらほんとに泣けてきてしまった。 
エフのオタクなのでF6が出てきたことにも泣けてきましたが、キャラも増えて当たり前のように踊る舞台の上の皆の姿に込み上げる物があって泣きました。 


今回の3は今までみたいに六つ子のある1日の出来事ではなく、1月〜12月までの一年間の話。 
初めてifでも妄想でもない「F6の一年間」も組み込まれていました。 
いやー衝撃でしたね。六つ子達が意図的にバトンタッチせずとも、同時にもうひとつの六つ子が存在を許されているんだもん。 
「俺たちは常に変わり続ける!」と変化を望むF6。嘘を付けないF6。意図をせずとも変えてしまうF6。なんでも出来るのに金魚は掬えないしたこ焼きを食べて火傷もするF6。とんでも設定すぎるけどそんな不思議な一年間を生きているF6。 
ちょっと格好悪いところもあって、そんなところすら格好いいのがF6。 

感慨深い、その一言に尽きます。 


F6が生きてる、生きる権利を与えられてる。神じゃないけど人間を超越した完璧なモノとして。 
「変わってもいいし、変わらないままでもいい」という選択をする六つ子が、F6の「変わり続ける」ということをも肯定しているように感じました。 

F6おそ松役の井澤さんが、たまに「もはや俺らが原作だから」と仰いますよね。正直原作のF6が大好きな私としては申し訳ないけど憤慨したし、原作ありきの舞台でそれを言うの?とか少し思ったりもしました。 
けど3を観て思ったのが、〝原作だと言えるほどに自分をF6だと思い本気でやっている〟と受け取れるということ。3を観てというか今回の千秋楽を観てですね。 


「僕達はここから始まりました」という言葉と共にF6Yが流れた時は本当にもう走馬灯みたいに初演からの記憶が蘇ってキンブレ膝においてずっと泣いてましたもん。後出しで情報出されてもう大分先行終わっていて三次先行だかでチケット取って……今はないブルーシアターで一番最初に夢を見させてもらったんだなとか思い出してました。いやもったいない、泣かずにちゃんと見ろ。 

今でこそエフの原作絵柄のグッズも増えましたが、それが確実にステの影響だと分かっています。 
ここまでF6を大きくしたのは紛れもなくステF6だし、F6に日の目をまた浴びさせてくれたことに本当に感謝するし、概念でしかなかったF6に息吹を吹き込んでくれたステF6が心から大好き。 

今回の新曲の1曲目「Follow You're Dreams」のサビにある「Tell me!」では3.5話松汁でフェアリーが「皆の声を聞かせて!テルミー!」って言っていたのを思い出したり、アニメのクリスマス回とステのクリスマスはF6の登場の順番が同じなことに気付いたり、ホテルも破壊してくれちゃうし、原作オタクのこと本当に本当に大事にしてくれているんだといつも以上に今作では感じました。 

そのうえで、「普通のメンズになっちゃうんだ」って歌うF6。 
あのF6が、神様になってあげると言ったF6が、神っぽい存在だと言ったF6が、普通の男性になってしまう。 
約4年かけて、ステ版F6はここまで来たんだな、と。 
F6の根底にあるのは一番最初と変わらない、モテるためには、人気になるには、売れるためにはだと思うんです。 
そして総括して「愛されるには」どうしたらいいのかということ。 
愛されるために、そして愛するために、全知全能の神を辞め、愛し愛される対象である私達と同じ人間になることを選んだ。 
不可抗力と言っても差し支えないんじゃないかな。完璧な僕達から完璧さを失ってしまうほど、それほど、君を愛してしまったし愛されていたいんだ。そういうことですよね。 


2ndツアー、今までのように完璧で万能で凡そ欠点など見つからない完全なるF6、そんなF6だけど普通の人間と同じように失敗したり戸惑ったり自分達の力のせいで困ったり笑ったり、より魅力が増した姿で歌とダンスを披露してくれるんだと期待しています。 

アニメのF6は完璧が故にそこで完結しているイメージが私にはあります。他者を寄せ付けないというか、本当にF6はF6としてだけ存在しているというか。 
ステ版のF6は、普通の人間が演じているのもありすごく人らしく、ここから先の更なる進化が望めるもの。 
神様が人になっていく様子をリアルタイムで見ていられるって、贅沢すぎるな……。 



松ステ3ではF6の一年を観ることができて本当に嬉しかった。 
お金のパワーとビックリするほどいいそのルックスで私達の願いも何もかも叶えてくれるのに、僕達の一番の願いを叶えてくれるのは君だけなんだよと言ってくる、そんな松ステのF6が大好きです。 

原作のF6と松ステのF6、改めてこれから先もずっと好きでいたいなと思えた舞台でした。 
舞台のF6が好きな人はぜひアニメのF6も見てください、舞台以上にぶっ飛んでいてキャラ崩壊してるのは逆に原作なのでは??と思えるくらいなので。 
2ndツアーも喜劇2も観にいきます!松ステ4もずーっと待ってます!!!